人形峠
HIROYASU TAGUCHI ART WORKS
核燃料サイクル開発機構(旧動燃人形峠事業所)人形峠環境技術センター(岡山県上斎原村)の前に放置されたウラン残土
核燃料サイクル開発機構(旧動燃人形峠事業所)人形峠環境技術センター(岡山県上斎原村)の前に放置されたウラン残土
人形峠は岡山県と鳥取県を隔てる中国山地を超えて、両県を結ぶ主要な峠の内の一つである。嘗ては、舗装はされているが曲がりくねった九十九折れで、頂上にドライブインがあるというよくある峠路であった。特に眺めが良い訳でもない。現在では新しく広い道路が整備され、嘗ての峠は長いトンネルで貫かれて旧道は忘れられたように通る車も殆どない。
この人形峠を有名にしたのはウラン鉱石の鉱脈発見とその採掘によってである。この地域でのウラン採掘は1950年代中葉の鉱脈発見から1980年代半ばまで続けられた。この地域のウラン鉱山は人形峠付近にのみに在るのではない。人形峠から東へかけて岡山県上斎原村に拡がる人形峠鉱山、鳥取県東伯郡東郷町方面地区から南方へ人形峠の方向に拡がる東郷鉱山、倉吉市円谷地区から南西に拡がる倉吉鉱山、と大きく分けて三つの地域がある。
これらの地域での採掘では、採算性が全く取れない物である事が分かった為、先に述べたように1980年代半ばに採掘は中止されるのであるが、本格的に採掘された約10年の間に、作業員として雇用された多くの地域住民が被爆する事となる。採掘された鉱石の内、原子力発電の燃料として利用できるのは極一部であり殆どの部分は鉱滓(ズリ)として残される。これらの鉱滓は長年山野に放置されてきた。これがウラン残土の問題である。ウラン残土からは気体ラドン等の放射性物質が四囲の環境に放射能汚染を広げている。特に方面地区に於いて、ウラン残土は住民の生活環境のすぐ近く放置されているのだ。この間の事情については、方面地区の住人であり活動家である榎本益美氏の著作に詳しい、一読をお願いしたい。
核燃料サイクル開発機構(旧動燃人形峠事業所)人形峠環境技術センター(岡山県上斎原村)の前に放置されたウラン残土
今から約6年前、一つの事件が起こった。榎本氏らを中心とする住民グループが方面地区の裏山に放置されているウラン残土の中からフレコンパック一袋を抜き取り、人形峠にある核燃料サイクル開発機構(旧動燃)人形峠環境技術センター正門前に持ち込んだのである。これは返しに行ったという表現が適当かもしれない。このウラン残土が放置されている土地は遠の昔に借地権が切れており、住民のものである。件のウラン残土はそこに不法投棄されている形となっているのだ。この持ち込まれたフレコンパックであるが、核燃側は当然の如く受け取りを拒否し、かといって又元の所に再度不法投棄しにいく訳にもいかず、正門脇にある守衛所の前にブルーシートで包まれ簡単なバリケードで囲われて長らく放置されたままになっていた。
ここは、忘れられた旧道であり核燃関係以外の通行は殆ど無いのであるが、それでも二輪や四輪でのパスハンターや核燃の資料館目当ての一般の観光客も幾らかは訪れる。ここにやってくる人の中に、このブルーシートに包まれたフレコンパックの正体を知っている人がどのくらいいるだろうか。その存在にすら気がつかない人が殆どなのではあるまいか。
何処までが核燃の敷地であるか寡聞にして知らないのであるが、件の物は施設を取り囲むフェンスの外に長らく放置されていたのであり、その場所的曖昧さはウラン残土問題の一つの面を象徴していたと思う。
注目した人は少なかったといえ、榎本さん達の行動は怒りに満ちた実力行使であったと同時に、ウラン残土の問題を目に見える形にしたインパクトのあるアートパフォーマンスとしても私には感じられるのだ。
核燃では方面地区に放置しているウラン残土約3000立方メートルの内、比較的放射線量の高い290立方メートルを米国で処理する為2005年8月29日から神戸港に運ぶ準備を進めてきた。(津山朝日新聞の記事による) そして実際290立方メートル(袋詰め551個)が搬出された模様である。これと機を一にして核燃人形峠環境技術センター正門脇に置かれていたフレコンパックも撤去された。榎本さん達が持ち込んだウラン残土のフレコンパックは、今はもう見る事ができない。それが置かれていた場所にはまるで何事も無かったかのように白々としたアスファルトの路面が拡がっているだけである。
突き返されたウラン残土、撤去された跡
production & Copyright ; Hiroyasu Taguchi / 製作 ・著作 田口博康